福岡高等裁判所 昭和34年(う)322号 判決 1959年7月16日
本籍並住居 熊本県水俣市大字陣内九八六番地の二の一の二
無職 元山弘
昭和三年一二月一一日生
右の者に対する出入国管理令違反被告事件について昭和三三年一二月二六日熊本地方裁判所が言渡した判決に対し、被告人より控訴申立があつたので、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人諫山博、同谷川宮太郎連名、弁護人谷川宮太郎及び被告人名義の各控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。
弁護人諌山博、同谷川宮太郎の控訴趣意第一点及び被告人の控訴趣意(一)の(イ)について。
刑事訴訟法第二五六条第三項の規定が、審判の対象範囲を明確にして被告人の防禦に実質的不利益を与えないためのものなることは所論のとおりである。従つて、当該訴因について二重起訴又は時効完成の有無を確知し得ることが被告人の権利防禦のため極めて重要なることは勿論である。けれども、二重起訴については、現に起訴されて審判されている事件が既に起訴されて審判中の事件又は確定判決を経た事件と同一でないことを認め得ればこれを以て被告人の権利の防禦は十分にして、所論の如く現に起訴されている事件が将来再び起訴される虞がないようにしなければならないものと解すべきではない。蓋し、将来における二重起訴は訴因を如何に詳細明確にしても捜査手続の過誤によりこれが絶無を保し難いところであるのみならず、二重起訴の現実に直面した場合、手続の過誤を指摘してその是正を求むれば被告人の権利保護に欠くるところがないからである。ところで本件訴因は犯罪の日時として、昭和二七年四月頃から同三三年六月下旬頃迄の間という六年の永い期間を以て表示し、犯罪の場所、方法についても具体的詳細を欠いている。しかし、さればといつてこれがため直ちに訴因の特定を欠くものと速断すべきものではない。日時の表示としての一定期間の長短が訴因の特定に影響を及ぼすことは否み難いところであるが、それは犯罪の種類、態様、難易等によつて著るしい差異を齎すものというべく、従つて国内事犯における比較的軽微な犯罪の如く自らしようと思えばいつでも容易にその機会を掴み得る犯罪であれば、日時の表示としての期間も自から短期なることを要すべく、これに反し、本件の如き中国のような遠隔の地域に赴く密出国においては、船舶、飛行機何れの方法によるを問わず、その機会を得ることがなかなか容易な業でないものであるから、極めて長期に亘る期間を以て日時を表示しても必ずしも訴因の特定を害するものでないと解するのが相当である。そして、記録によれば六年の期間内に被告人が本件以外に中国に密出国したとの疑をさしはさむべき余地はなく、検察官も亦かかる前提の下に本件を起訴していることが窺われる。更にまた、本件が有罪の確定判決を経た後において、万一日時、場所、方法を具体的詳細に明確にして被告人が中国に密出国をしたという事実が起訴されたと仮定しても、その日時が右期間内に属する限りすべて二重起訴であるから確定裁判を経たものとして処理さるべき筋合である。なお犯罪の日時として表示された期間が数個の同種行為を包容し得べき期間であるからといつて、これがため所論の如く直ちに被告人の防禦を不能または困難ならしめるいわれは存しないし、また被告人の憲法上の権利を侵害するものともいわれない。尤も、本件訴因における日時の表示が六年という永い期間であるのに対し、公訴事実の時効期間は三年である関係上、被告人が本件密出国後一回も帰国しなかつたこと又は万一帰国したことがあると仮定しても昭和三三年七月二五日の起訴当時まで国内滞在は三年に満たないことが前提とならない限り、時効完成を否定し得ないことは被告人所論のとおりであるが、記録を精査し原判決挙示の各種証拠を仔細に検討すれば、被告人が本件公訴事実のとおり中国に密出国して以来昭和三三年七月一三日中共地区引揚船白山丸にて帰国するまでの間一時帰国した事実は全く認められないから、公訴時効は完成していないものと認めざるを得ない。さればこそ、被告人は本件に対し公訴時効の主張をしなかつたものといわねばならない。従つて本件事案に照らせば公訴時効期間の二倍に達する期間を以て日時を表示しても必ずしも訴因の特定を害し、以て被告人の防禦権の行使に不利益を与えるものとはいわれない。さすれば、本件訴因は日時の表示が六年という長期に亘り、場所方法もまた具体的詳細に明示されてはいないが、なお特定に欠くるところはないと解するのが相当であり、刑事訴訟法第二五六条第三項に違反するものということはできない。論旨は理由がない。
右弁護人両名の控訴趣意第二点及び弁護人谷川宮太郎の控訴趣意並びに被告人の控訴趣意(二)の(ロ)、(ハ)、(ニ)、(ホ)について。
憲法第二二条第二項の外国に移住する自由には外国へ一時旅行する自由を含むものと解すべきであるが、外国旅行の自由といえども無制限に許されるものではなく、公共の福祉のために合理的な制限に服するものと解すべきであること及び旅券法第一三条第一項五号が旅券発給を拒否することができる場合を規定したのは、外国旅行の自由に対し公共の福祉のために合理的な制限を定めたものにして無効といわれないことは既に最高裁判所判例(昭和三三年九月一〇日判決)の示すところである。そしてまた、外国人の出国について規定した出入国管理令第二五条が出国それ自体を法律上制限するものではなく、単に出国の手続に関する措置を定めたものであり、事実上かかる手続的措置のため出国の自由が制限される結果を招来するような場合があるにしても、これは同令一条に規定する本邦に入国し又は本邦から出国するすべての人の出入国の公正な管理を行うという目的を達成する公共の福祉のため設けられたものであつて合憲性を有するものと解すべきことは最高裁判所判例(昭和三三年一二月二五日判決)の示すところであるから、日本人の出国について右第二五条と全く同一内容を規定した同令第六〇条もまた公共の福祉のために設けられたものにして憲法第二二条第二項に違反するものでないといわねばならない。従つて、同令第六〇条の出国手続制限規定に違反して出国した者を処罰する旨の同令第七一条が適法有効であることは論を俟たないところである。このことは同令中入国手続に関する規定に違反した場合を処罰する規定がないからといつて、その解釈を二、三にすべきいわれは存しない。
そして当審において取り調べた裁判官の証人岡崎勝男、同灘波英夫に対する各尋問調書によれば、昭和二七、八年頃いわゆる民主団体所属の人々がソ連又は中国に赴くため旅券下附を申請したのに対し旅券法第一三条一項五号又は第一九条により拒絶された事例が多いことは否み難いところである。けれども右岡崎証人尋問調書によれば、日本政府は旅券下附申請者が共産党員なる一事を以てその発給を拒絶したものではなく、只わが国がソ連、中国と著しく国情を異にし殊に正規の外交関係が樹立されていなかつた関係上、渡航者の生命、財産等保護の完璧を期し難いためや、日本国の利益、公安を害する虞があると認められたため、同国への旅券発給が拒絶される場合が多かつたところ、共産党員は専らこれ等の国への旅券下附を申請したので結果的には共産党員に旅券発給を受け得ない者が多かつたわけであるが、さればといつてすべての共産党員に対して常に旅券発給が拒絶されたものではなく、現に昭和二八年九月には共産党員須藤五郎が旅券の下附を受けており、また昭和二七年一二月には平野義太郎外数名の民主団体所属の者が旅券の発給を受けているし、更に昭和二九年以来国際情勢の緩和につれて旅券の発給も漸次増加の傾向を辿つた事実が認められる。
かようなわけで、日本政府が共産党員なる一事を以て、すべての共産党員に対し旅券法による旅券の発給を拒絶してその海外渡航の途を閉ざしたものではなくして、専ら旅券法第一三条第一九条適用の結果出国先がわが国と著しく国情を異にし外交関係も開かれていなかつたソ連、中国であつた関係から、旅券の発給が拒絶される傾向にあつたものにして、同法を故ら共産党員のみに不利に適用したとか、これが運用に適正を欠いたと思われる事情は記録上認められない。してみれば旅券法の右法条適用の結果事実上多数の共産党員が旅券の発給を拒絶されてソ連や中国に渡航し得なかつたとしても、それはひとえに憲法の容認する公共の福祉に基く合理的な制限であつてやむをえないところであり、毫も憲法第二二条第二項に違反するものとはいわれない。
従つて旅券法の適正なる運用の結果によつてソ連や中国への旅券が得られないからといつて出入国管理令第六〇条所定の手続を経ないで不法に出国すればこれが違反の責を免れるものとすることのできないのは当然であり、かかる出国を以て正当防衛行為又は緊急避難行為或は正当行為として違法性を阻却するものとなし、又は期待可能性なしとして責任がないという所論は、本件が刑法第三五条第三六条第三七条或は期待不可能の各種要件を何等具備しないのに拘らず、独自の前提を構想した立論にして到底採用し難いところである。
そしてまた、憲法上の基本的人権に対する公共の福祉による制限が原則として法律によるべきものと解すべきことは被告人所論のとおりである。ところで、出入国管理令は講和条約発効の日である昭和二七年四月二八日以前においては超憲法的効力を有したものであり、同日以後においては同年法律第一二六号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸法令の措置に関する法律第四条により法律として効力を有するものであるから(詳細は被告人の論旨(二)の(イ)に対する説明参照)、同令に基く出国手続の制限は適法有効なるものといわねばならない。論旨は理由がない。
被告人の控訴趣意(一)の(ロ)について。
しかし本件の如き密出国においては六年の長い期間を以て日時を表示することが訴因の特定を阻害するものでないことはさきに説明したとおりであるから、右期間を以て犯罪の日時を表示することは毫も罪となるべき事実の判示に欠くるものとはいわれない。そして本件判決の既判力は右期間内の違反行為について生ずるものと解すべきであるから、万一被告人が右期間内に数回中国に密出国したと仮定しても、すべて確定判決を経たものとして取り扱わるべき筋合でありこの点において被告人に不利益をもたらす虞も存しない。論旨は理由がない。
同控訴趣意(一)の(ハ)について。
しかし、本件記録殊に起訴状記載の公訴事実と各種証拠並びに原審公判審理の経過に徴すれば、検察官は被告人が昭和二七年四月頃から昭和三三年六月下旬頃までの間中国に密出国したのは一回であり、しかも出国後引続いて本邦外にあつたものとして公訴を提起し原審も亦これに基いて審理判決した事実が認められる。そして原判決挙示の証拠によれば、被告人の右密出国が一回にしてしかも引き続き本邦外にあつたことを肯認するに足るものである。記録を精査しても、本件が二重起訴であつたり時効完成を窺うべき資料はなく、原審の措置に所論の如き訴訟手続違反は存しない。論旨は理由がない。
同控訴趣意(二)の(イ)について。
出入国管理令は昭和二〇年勅令第五四二号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基き昭和二六年一〇月四日政令第三一九号を以て制定されたものであるが、同政令は昭和二七年四月二八日法律第一二六号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸法令の措置に関する法律第四条により日本国との平和条約の最初の効力発生の日以後は法律としての効力を有するにいたつたものであるから、同日以後の違反行為に対し本令を適用して処罰することは罪刑法定主義に反するものでないことは勿論である。そして右勅令第五四二号は日本国憲法にかかわりなく同法施行後も憲法外において法的効力を有したものであり、同勅令は昭和二七年法律第八一号により平和条約発効の日から廃止されたが、本件政令三一九号出入国管理令は右勅令が超憲法的効力を有していた間にこれに基いて適法に制定されたものであつて、しかも同令第六〇条の規定する内容は憲法に違反するところがないから、右勅令が廃止され平和条約が発効した後においてもその効力を否定さるべきいわれはない。(最高裁判所昭和三〇年一〇月二六日判決参照)従つて平和条約発効以前の違反行為に対し平和条約発効後の今日においてもなお同令を適用して処罰することは何等違法とはいわれない。されば仮りに本件犯行が昭和二七年四月二七日以前に行われたとしても当時超憲法的効力を有した同令を適用処断すべきは当然である。論旨は理由がない。
そこで刑事訴訟法第三九六条に則り本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 藤井亮 裁判官 中村荘十郎 裁判官 横地正義)